札幌独立キリスト教会の起源は、札幌農学校(現北海道大学の前身)初代「教頭」(President)として赴任したW.S.クラークにあります。クラークについては Be gentleman や Boys,be ambitious !の言葉で知られていますが、そのわずか8カ月半の滞在期間(1876(明治9)年7月31日~1877(明治10)年4月16日)に、彼は、聖書によらずに道徳を教えることは不可能であるとの信念から、開拓使長官黒田清隆の暗黙の了解のもと、授業開始前に聖書を講じました。それが若き学徒たちに決定的感化を及ぼし、ついに彼らはクラークの起草した「イエスを信ずる者の契約」に署名するに至りました。これら入信の決意を表明した者(一期生16名、二期生15名)の中に、大島正健、内村鑑三、宮部金吾、太田(新渡戸)稲造らがいます。
クラークが帰米した後も、彼らキリスト者学生たちは、共に祈祷会を持ち、聖書を中心に、各自交替で牧師役を受け持ちつつ、素朴な日曜礼拝を守っていました。一方ここ札幌を伝道拠点として、各派宣教師が来道し、学生たちは教派制度の意味をよく知らぬまま、それぞれ別々に受洗入会しました。彼らは後に、一つの疑問に突き当たります。「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と信ずる同信の友が、なにゆえある者は聖公会に、ある者はメソジストにと別れねばならないのか。
この疑問からやがて自主独立の教会を持ちたいとの気運が高まり、いろいろの困難を乗り越えて、ついに一つの会堂を手に入れるに至りました。それがいわゆる白官邸と呼ばれる最初の教会です。これには米国メソジスト監督教会宣教師(在函館)が400ドルの資金を提供してくれました。
そして1881(明治14)年10月2日、諸教派に別れていた学生たちは再び一緒になり、初めての礼拝が持たれ、次の4ヶ条から成る「独立宣言」を公にしました。宮部によると以下のとおりです。
1.同窓の学友等の宗教上の意見殆ど相同じきに関わらず分離するの不可なる事
2.札幌の如き狭隘なる市中に二派の集会所を設けて競争するの愚策なる事
3.厳酷なる信仰箇条と煩雑なる礼拝儀式の束縛を厭ひたる事
4.外国人の扶助を借りずして我国に福音を伝播するは我国人の義務なりと知りたる事
この独立宣言に、この教会の創立の精神がよく出ています。彼らが教会の独立にかくまで熱心だったのは、教派への反抗の故ではなく、独立することが信仰の自由のために本質的に必要だったからです。したがってこの教会は必然的に、外国宣教師に依存せずに、日本人信徒による独自の宣教を生み出すことになります。これが世に言う「札幌バンド」です。
かくして新教会は誕生しました。すでに二期生たちも1881(明治14)年7月に卒業しておりましたが、経済の独立という問題がありました。米国メソジスト監督教会からの借金をいかに返すべきか。彼らの涙ぐましい努力が続きますが、その時(1881年11月15日)、恩師クラークから108ドル88セントが贈られてきました。彼らはいかに勇気づけられたことでしょうか。翌1882(明治15)年12月28日、彼らはついにその負債全額を、無利子で貸してもらったことに感謝しつつ、払い終えました。「歓喜筆舌につくし難し」と内村は書いています。以来、当教会はこの日を「創立記念日」と定めています。クラーク離日後5年経過していました。
会堂はその後数年も経たぬうちに手狭になり、1885(明治18)年、二期生藤田九三郎の設計になる新しい会堂(南3条西6丁目)が建築され、アカシヤの教会と呼ばれました。「この会堂は前のものと比べると、はるかに荘厳なものになった」、と記されています。
創立者のうち中心となって活動した大島は、札幌農学校教授として札幌に留まり、10年間実質的初代牧師として、教会の発展に力を尽くしました。しかし、大島はもともと教役者ではなく、按手礼を受けていなかったので、洗礼
大島は、宣教活動に励みながらも、その後札幌を去りますが、終生本教会の先達として協力しています。
それ以後年間、無牧時代でしたが、札幌農学校の若き学徒たちを中心に信仰復活運動が起こりました。そして、1900(明治33)年、総会で教会の名称を「札幌基督教会」から「札幌独立基督教会」と改め、さらに「牧師選任決議」がなされました。そして、この教会の伝道に関する責任を総会に帰属させることで、教会は真の独立を果たしたのです。信徒の中から会衆の責任で牧師を選任することができ、その牧師が「洗礼
このことは、その後の独立教会の歩みを決定づけた、その歴史上まさに画期的なできごとでしたが、それには、内村の「洗礼
内村は後に、宮部に宛てた書簡(1913年6月7日付け)の中で、独立教会は「ほんもののキリスト教会-独立、無教派、民主的
内村は、独立教会の信仰復活運動以後、1930(昭和5)年に天に召されるまで30年間、独立伝道者として活躍する一方で、6回に及ぶ札幌伝道をはじめ、新会堂の建設や牧師の選任など、本教会への支援を続け、重要な決定に参与しました。
1912(明治45)年、第3回札幌伝道の最後に、内村らは新会堂「クラーク記念会堂」の建設を提唱しました。その10年後の1922(大正11)年、大通西7丁目に威風堂々とした堅牢優美な新会堂が完成し、10月28日、クラークⅡ世を迎えて献堂式が挙行されました。クラーク記念会堂は「
その後は、金沢牧師時代、牧野牧師時代、逢坂牧師時代と続きます。その間、独立教会は教派を超えた多くのキリスト教徒の支援・協力を得てきました。
クラーク記念会堂は、太平洋戦争末期の約1年間陸軍に、戦後も約半年間アメリカ占領軍に接収され、その間、会堂守住宅で礼拝が守られました。
戦争が深みに入りつつあった1939(昭和14)年、宗教団体法が成立し、国家は宗教統制のため、教会合同を強要してきました。しかし、本教会は洗礼
宗教団体法の規制の下で認可された教会規則には、当時の国家主義権力により妥協を強いられたところがあり、深い悔い改めを要します。それにもかかわらず単立宗教法人としての存立を守ったことが、戦後の独立教会の再出発を可能にしたのです。
1946(昭和21)年3月22日、教会は「札幌独立基督教会」に名称を復帰させ、5月12日クラーク記念会堂がアメリカ占領軍より無事返還され、新しい時代が始まりました。
8月4日臨時総会が開かれ、時田 を主管者に選び、信徒により礼拝・講壇を守ることが議決され、翌1947(昭和22)年4月戦後初の定期総会で、教会規則第9条「本教会は原則として会員が互いに責任を分かち、教会の礼拝、伝道に当たる」と明文化されました。
牧師
それ以来、牧師職を設置せず、信徒たちが交替で礼拝の証詞を担当するようになり、この体制はその後50年を経て定着し、今日に至っています。この間、教会・教派を超えて、多くの信徒の協力をいただきました。
大通西7丁目のクラーク記念会堂は築後40年を経て老朽化が進み、1963(昭和38)年大通西22丁目の現在地に、新しく「W.S.クラーク・宮部記念会堂」が建てられました。これは、宮部が1951(昭和26)年天に召されるまでの70余年間、文字通り教会の中心にあって、この教会を守り通し、内村との厚い友情に支えられて、その重荷を負い続けたことを記念したものです。
新しい会堂を根拠地とする独立教会は、約20年の動乱期を
本教会は創立の始めより、欧米教会の教派的伝承や儀式を重視する外国人宣教師や牧師に依存しないで、聖書の真理と福音に導かれて、救い主イエスの父なる神のみに依り頼んで歩みを進めようとしてきました。現在は牧師職すら設置せず、信徒が証詞を担当し、また洗礼や
しかし同時に、聖書にある「キリストのからだ」としての公同の教会を目指してきました。真実の神を信ずる信徒たちの独立と公同を両立させるための不断の戦いと祈りが課せられています。それが札幌独立キリスト教会のあり方なのです。
西暦 | 年号 | 月日 | 独立キリスト教会に関係ある主要事項 |
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1876 | (明9) | 8月14日 | 札幌農学校、開校。クラーク演説。lofty ambition 説く。 |
1877 | (明10) | 3月5日 | Covenant of Believers in Jesus 執筆・署名(大島正健ら一期生。後に宮部金吾、太田(新渡戸)稲造、内村鑑三ら二期生も署名)。 |
1877 | (明10) | 4月16日 | クラーク札幌農学校を去る。島松で Boys, be ambitious! の語残す。 |
1881 | (明14) | 10月2日 | 独立宣言。独立超教派の札幌基督教会(白官邸)創設(南2西6)。 |
1882 | (明15) | 12月28日 | 名実共に独立教会創立(内村鑑三ら会堂建設借金返済)。 |
1885 | (明18) | 8月 | 新会堂(アカシアの教会)献堂(南3西6)。 |
1888 | (明21) | 1月 | 大島正健按手礼を受く。 |
1891 | (明24) | 1月9日 | 内村鑑三、第一高等学校始業式で「不敬事件」。 内村は独立教会から転会。 |
1900 | (明33) | 2月 | 森廣ら青年の発議で札幌独立基督教会と改称し、牧師選任決議。 |
1900 | (明33) | 11月 | 内村、教会員に復帰。 |
1901 | (明34) | 3月 | 洗礼 |
1902 | (明35) | 3月 | 宮川巳作牧師となる。日露戦争前から非戦論主張。 |
1907 | (明40) | 11月 | 竹崎八十雄牧師となる。 |
1913 | (大2) | 2月 | 『独立教報』発行始まる(昭和19年まで30年間、371号まで続く)。 |
1920 | (大9) | 9月 | 森安延衛牧師となる。 |
1922 | (大11) | 10月28日 | クラーク記念会堂を新築献堂(大通西7丁目)。 金沢常雄牧師となる。 |
1926 | (大15) | 5月14日 | 北海道大学創立50年記念式にあたり、校庭にクラーク像除幕。 |
1928 | (昭3) | 7~9月 | 内村鑑三第6回札幌伝道集会。 |
1928 | (昭3) | 9月 | 牧野実枝治牧師となる。 |
1939 | (昭14) | 6月 | 逢坂信 牧師となる。 |
1940 | (昭15) | 6月 | プロテスタント教会合同に非加盟の方針を決議。 |
1942 | (昭17) | 3月31日 | 単立宗教法人札幌大通基督教会として教会規則認可。独立堅持。 |
1946 | (昭21) | 3月22日 | 札幌独立基督教会に名称復帰。 |
8月4日 | 臨時総会で時田 主管者となり、信徒達の証詞により礼拝を守ることに決議。 | ||
1951 | (昭26) | 3月16日 | 宮部金吾召天。 |
1952 | (昭27) | 7月27日 | 新宗教法人法に基づく宗教法人札幌独立基督教会設立公示。 |
1961 | (昭36) | 12月 | 『独立教報』再刊、第1号発行。 |
1963 | (昭38) | 11月24日 | クラーク・宮部記念会堂を新築献堂(大通西22丁目)。 |
1964 | (昭39) | 井上猛主管代務者に選任される。 | |
1967 | (昭42) | 9月 | 井上猛伝道主任となる。 |
1969 | (昭44) | 4月 | 社会福祉法人光の園・発寒ひかり保育園を設立。 |
1982 | (昭57) | 10月 | 教会創立百年記念式典挙行。 百年史『札幌独立キリスト教会百年の歩み』(上・下巻)発行。 |
1983 | (昭58) | 5月 | 井上猛主管者となる。 |
1997 | (平9) | 5月 | 定期総会において、教会の歴史を踏まえ将来を見据えた「札幌独立キリスト教会規則」改正案審議、可決。 |
2006 | (平18) | 5月 | 大友浩主管者となる。 |
2008 | (平20) | 9月 | 教会堂を大規模に改修。 | 2024 | (令6) | 6月 | 井上惠主管者となる。 |